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中国と花・そして昆明

中国@
目次順に見てください1)10年前の中国2)現在の中国3)昆明のこと4)昆明の花
10年前の中国(1997.3の原稿)

 初めて中国を訪れたのは1988年の秋。江蘇省政府の招請で、野菜花きの調査のために江南地域を中心に1ヶ月滞在した。例の天安門事件のちょうど1年前で、改革解放政策が緒についたころであった。都市部では建設ブームが始まりつつあり、農村地帯では生産意欲があふれているように思えた。
 当時の中国には近代的な花き生産はほとんど皆無に近かった。上海ではまれに花屋を見かけたが、南京、無錫、鎮江、楊州、蘇州などの都市では、江蘇省政府の世話人に、花屋を見たいと申し入れても、案内してくれなかった。ほとんどの要望に親切に応えてくれていたことを思えば、見せるほどの花屋が無かったのであろう。
 実際に、自動車の窓からも花屋を見ることは一度も無かった。まれにキクの鉢植えが自由市場や路上で、数鉢並べて売っている光景が見られる程度であった。美しい造花を売る店がときどき目についたのが印象に残っている。
 とはいえ、一部の国公立の研究機関や農場では、オランダ式の近代的な温室を建設して、切り花生産を試行しつつあったし、野菜では育苗のためのパイプハウスが、既に生産現場で広く普及していたことなど、施設園芸の台頭を十分に感じ得る状況にはあった。
 中国人は歴史的に見ても花の好きな国民であり、もちろん、当時も花を楽しんでいたのは事実である。ちょうど秋のシーズンでもあったので、菊花展が各地の寺院や公園で大規模に開催されていた。また、ホテルや工場、公共施設の玄関まわりなどは、どこでも鉢植えのキクが美しく飾られており、道路にはサルビア、マリーゴールド、カンナなどが多数植栽され、街角には花があふれていた。むしろ日本より多かったようにも思える。不思議だったのは、多くのホテルや工場には、花を作る農場があり、これを栽培管理する担当職員を置いていたことである。いわば「わが社の花はわが社で作る」自給自足の方式で花を生産していたのである。ほとんど露地であったが、立派な中国式の温室を少なくとも1棟は持って、冬の供給にも備えていた。この自給的な花き生産がなんと非能率的な方法であろうと驚いたのが強い印象として残っている。
 一方で伝統的な花き園芸の保護にも努めていた。盆栽(中国では「盆養」というが)は、その技術を伝承し、由緒ある見事な大型の盆栽を保護し、展示するための盆栽園が各地の寺院などに設けられていた。また、チュウゴクシュンランなどの東洋蘭は、無錫市では「蘭花房」と称する大きな市立の施設があり、品種保存やその技術を伝承する政策を実施していた。これらは、いかにも社会主義中国の本領でもあるように思えた。近代的花き生産の遅れはあっても、広義の意味での花き園芸に携わる人口は意外と多かったように思える。
 当時は既に人民公社は無くなっていたが、主要な農産物だけは、社会主義的な計画経済の中に組み込まれ、与えられた農地のうち半分程度は、指定された農作物を作る義務があった。しかし、残り半分の耕地では、作物の選択は自由であり、自由市場は活況を呈していた。当時の社会主義圏の国の花き園芸は、公共緑化を目的とした色彩が強く、それなりに重視されていたので、植木や花も産地として指定されている村はあった。ただし、あくまで都市の緑化が前提であるから、切り花よりも、植木類や花苗物、鉢物が主流であり、自由に作れる半分の農地も切り花に指向するほどまでには至っていなかった。要するに当時の中国の花き園芸は、我々の考える花き園芸とはかなり質的な違いがあった。
中国式温室 普通は南面片屋根式で、内部は階段状になっている。鉢物専用。古いホテルや工場の農園などに多い。暖房はオンドル式。
中国式温室の内部 階段状になっている。棚の下は資材などを置いている場合が多い。。
南京市で見た玄武湖菊花展。秋には国内各地で菊花展が盛ん。
蘇州市拙政園の盆栽園の風景
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